君がいるから

 いつまでも目を開けてないで、ゆっくり閉じて?
 まぶたをそっと指で触れて、深呼吸。
 肺に空気が入るのをちゃんと感じて?
 うん。そう。ゆっくりゆっくり。
 ね、落ち着いた?
 今はまだ、あなたはひとりだけど。
 いつの日か、きっと素敵な人と一緒になって
 大切な時間を共有するよ。
 だから焦らないで。何かを憎まないで。
 嫉妬しないで。悪いこと、思わないで。
 その時が来るまで、いつだって私は
 ずっとあなたの側で、あなただけを思って、
 いるから。

見える見えない

「こうやって行くなんて話、あたし聞いてなかったんだからね! まったく、あんたはいっつもこう。思いつきで行動するんだから、ホント頭どうかしてるんじゃないの? 普通タクシーでしょ。ハングライダーってどう考えたらなるのよ!」
 ゴーグルをした少女は、風に長い黒髪をなびかせながらハングライダーをうまく操っている。もちろん隣のハングライダーに向かって絶叫しながら、である。
「いやー、あー。まあ、ごめん。ほんとごめん。今回は完全にぼくのミスです。こんなに寒いとは思わなかった」
「そこじゃねえ、あんたそこじゃねえよ! 寒いから文句言ってるんじゃないよ。確かに寒いけどさ。ったく、もう。こうやって女子高生ルックで飛んでるあたしの身になってみなよ。下から丸見えじゃないの。いろんな意味で狂ってる」
「ぼくだって学生服だ」
「ぼくだってって何なのさ! なに張り合おうって思ってるの、見えるっていうの? 何が! どんな風に! 見えないわ! 黙りなさい!」
「す、すみません」
 高層ビル群の間を縫うように、二つのハングライダーが飛んでいる。寄り添うように、しゅるりしゅるりと。
 彼女たちは今日、卒業式なのである。遅刻ぎりぎりだ。

ABCスープ

 中学生は、平気でぼくのことを40歳とかいうので泣きそうになった。
 頭にきたので「じゃあ結婚してるように見える?」と尋ねると「してないと思う」
 ぼくは死にたくなった。
 昔、ABCスープというのが給食で出ていたと語られた。
「知らないなあ。本当にスープなの?」「ほんとほんとだよー。先生信じてないでしょー」
「いや、信じてる。だって、ABCビスケットみたいな小さいラーメンがたくさん入ってるんだよね。しかも自分の名前を最後まで残して最後に食べてたとか、リアリティがある。おれも食べたいなあ、それ」「先生、こどもー」「どこが」
 それにぼくの時代は、牛乳パックは三角だったと決め付けられた。違うよ。普通に長方形のだった。同僚の1コ下の女の子にも決め付けられた。その子曰く
「先生(ぼくのこと)の年代は普通三角ですよ」「何言ってるの」「だって私は三角でしたよ」「ほんとかよー。おれは長方形だったよ」「嘘だぁ」
 三角形のものなんて見たことない。ピラミッドパワーか、ピラミッド。
 自宅に帰り、『ABCスープ』で検索したら、ほんとはABCマカロニって書いてあった。
 マカロニとラーメンってぜんぜん違うじゃないの。まったく。

ハイテンションガール

 ねみー。なんだかねみー。という具合で、あたしは春先だからすごい寝てます。体重少し増えて体重計のせいにしたりと。ハラハラドキドキ春先乙女チック。体重計は気分屋だ!
 春先の魔力をめちゃくちゃ感じちゃってる今日この頃! 朝早くから外でバン! バン! って打ち上げ花火みたいな音がして目が覚めた。たくもう、なんですの、なんですか? あたしの眠りを妨げるのは何なのさ!
 たとえそれが王子様だってあたしは殴り飛ばす。普段から寝起きは最悪なので、もうすごくイライラいらいら。ていうか、もう朝8時なのね。起きなきゃ。でも布団が、布団がぬくい。ぬくすぎる。どうでもいい、どうでもいい。どうでもいいの。全部どうでもよくなるの。
 でも、そんなことはいいの。いや、よくないの。どっちだ! 北と南はどっちだ! 携帯でメールチェックして、あー、別に今日は何もしなくて良い日ね、人生設計はばっちりなのです。どうでもいいの。アランドローン!
 はー。いい加減起きますか。ぼさぼさ頭をわしゃわしゃして、あたしはベッドから降りる。足下には昨日の夜に読んだ本が無造作に散らばってて、勘弁してくださいよねほんと。って頭を抱えつつ、カーテンを開けて光を部屋に取り込む。ぎゃー、やられた!
 そしたら部屋の散らかり具合が気になる。光って残酷よね。なにこれ、光マジック発動ってやつ? よくわかんないカードゲームアニメみたいな気持ちでチョアー! ってポーズして体を伸ばす。ターンエンド!
 たるい。たるすぎる。一応、朝に10分は腰を回して気になるおなかの集中ダイエットを試みるも実質5分くらいで飽きた。飽きるよね。ソファーに座りテレビをつけると、ドラマの再放送がやっていてあたしは釘付けになる。くわっぱ! こんなことやってる場合じゃない! あたふたあたふたあたふたあたふた。
 まあ、そんなこんなであたしの一日は始まって、最終的にお風呂に入って寝るのだ。なんともぐうたらな生活。それでもあたしにとって、好きな一日。

線は点の集まり

 ぼくはいろいろ夢を見る。しあわせな夢から、怖い夢まで。ノンストップで続く不連続な映像という名の点の集まりは、ジェットコースターが所々断線しているレールの上を走るみたいに、ぼくの頭の中を駆け巡る。
 昨日見たぼくの見た怖い夢の中のひとつに、変なものがあった。どこが怖いのかはわからないけれど、それは本能的に怖かった。以前見たコンタクトレンズをつけっぱなしにしていて、目に張り付いている、どうしようというスレをベースにされていて、ぼくの目にコンタクトレンズのような、薄い何かが張り付いていて、ぼくがそれをゆっくりと剥がす、そういう夢だった。ほんの少しの夢であったのに、ものすごく怖かった。別にコンタクトレンズのような何かだけが剥がれて、何も剥離していないのに。目の白い部分も一緒に剥げてしまった気がした。まるで、これはぼく自身を示しているように思えた。
 人は何かのフィルターを通して物事を見ることが多い。それはしょうがないことで、自分の考えや事前に得た他者からの情報などを、ぼくらは無意識のうちにフィルター化してしまう。実際、そういう先入観というのは悪いことではない。怖い顔をした人を見かけたら、怖そうだな、と思ったり。人からあのお店おいしくないよ、と言われて食べに行かないようにするとか。それなりに当たり前のことだとぼくは思う。
 だけれど、少なくともぼくはできる限りそういう風に先入観を持たないようにしたいと思っている。これが、ぼくなりの方針なのだ。先入観を持ってしまうと、その時点でその情報は、ぼくの中で定義付けが行われ、絶対的なものになってしまう可能性が高いからだ。ぼくの目で直接見て、判断したい。判断するべきなのだ、と。過去の出来事から、ぼくはそう思う風になって今に至る。
 けれど、ぼくはぼく自身の手で、そういうコンタクトレンズみたいなものを作ることがある。被害妄想とか、思い込みで。それがぼくは嫌だ。けれど、いつも気づくのはコンタクトレンズを指摘されたときで、すべては後の祭りになっている。
 自己矛盾を抱えたぼくは、ぼく自身が不連続なぼくで構成された人生を歩んでいく。

比較さん原則

 生きると言うことに何の意味があるのだろうか。いまだにそれがわからない。ぼくが可能な限り、最大限に誠実に生きたとしても、ぼく以外の誠実に生きていないように見える人間ほど、とてもしあわせである気がする。そんな風に言っても、そもそも誠実って何なのかぼくの中にはしっかりとした定義はないし、もちろんしあわせの定義すらぼくにはわからない。
 ぼくは考えても意味のないことを考えている。空を飛ぶ鳥が三年後どうなっているか、そんなことを考えているようだ。ぼくは夜、田んぼのあぜ道を一人歩く。
 昔はうつむいて歩いてばかりだった。人のしあわせそうな感じが目についてばかりで、惨めだったから。僻みに、被害妄想。厭世家気取りみたいだけれど、実際そうだって思っていたし、そう今でも、未だに、思う。ぼくは昔から何一つ変わっちゃいない。
 久しぶりにうつむいて歩くと、なんだか居心地がよかった。昔に戻ったみたいだ。枯れた彼岸花をたくさん目にする。彼岸花の季節はもう終わり、クリスマスシーズンが近づいている。気分が悪くなる。
 他人のしあわせと自分のしあわせを比較することは不可能だ。けれど、自己の身勝手な尺度を用いると、簡単に比較できて、その上、他人のしあわせがとてつもなく大きな気がする。そういうものなのだ。
 比較なんて、するもんじゃない。

失ったパズルのピース

 出来るだけ前向きに生きようとぼくは試みた。だから、これから自分の身に起きることは、自分でどうにか出来るものだと思ったりもした。自分の振る舞いで、きっとどうにかなるものだと思った。
 けれど、実際はそうじゃない。努力しても届かない。ぼくはどうやっても、ぼくの思う普通の人になれない。いつまでたっても理想の自分になれない。そういう風に思わざるを得ない。
 こうやって諦めているようなことを書きながら、どこかで自分は、きっと大丈夫だなんて思ったりしてるのに、心底気分が悪くなる。結局、すべては自分に回帰する。自分のことだけしか考えていない己に、気が狂いそうになる。
 ぼくもしあわせになりたい。ぼくはしあわせになれない、諦めよう。
 相反する事柄が同時に存在していて、一方が消えることはない。
 仮にそれが普通だったとしても、ぼくはもう終わってしまっているのかもしれない。ぼくはもう、何かが損なわれている。