比較さん原則

 生きると言うことに何の意味があるのだろうか。いまだにそれがわからない。ぼくが可能な限り、最大限に誠実に生きたとしても、ぼく以外の誠実に生きていないように見える人間ほど、とてもしあわせである気がする。そんな風に言っても、そもそも誠実って何なのかぼくの中にはしっかりとした定義はないし、もちろんしあわせの定義すらぼくにはわからない。
 ぼくは考えても意味のないことを考えている。空を飛ぶ鳥が三年後どうなっているか、そんなことを考えているようだ。ぼくは夜、田んぼのあぜ道を一人歩く。
 昔はうつむいて歩いてばかりだった。人のしあわせそうな感じが目についてばかりで、惨めだったから。僻みに、被害妄想。厭世家気取りみたいだけれど、実際そうだって思っていたし、そう今でも、未だに、思う。ぼくは昔から何一つ変わっちゃいない。
 久しぶりにうつむいて歩くと、なんだか居心地がよかった。昔に戻ったみたいだ。枯れた彼岸花をたくさん目にする。彼岸花の季節はもう終わり、クリスマスシーズンが近づいている。気分が悪くなる。
 他人のしあわせと自分のしあわせを比較することは不可能だ。けれど、自己の身勝手な尺度を用いると、簡単に比較できて、その上、他人のしあわせがとてつもなく大きな気がする。そういうものなのだ。
 比較なんて、するもんじゃない。